8歳で生まれて初めて靴を履いた話。

雑記

Hola!4児の父アランです。生い立ちが面白すぎてじっくり聞きたいと言ってくださる方が多いのでお話します。

当時5歳くらいだっただろうか。ある夜、左胸の激痛で目を覚ました。

真っ暗闇の中、カルメンひいひいおばあちゃんの怒鳴り声が響く。ジャングル暮らし、虫や蛇を見ても微動だにしないカルメンおばあちゃんが、あんなに大きな声を出すなんて、一体何が起きたんだ?

フィリピン、セブ島の近くのレイテ島。6人兄弟の次男の私は、生後まもなく貧しさから実の母に捨てられ(長男は亡くなっていた)、実の父も失踪。

身寄りのない見知らぬ人まで家にかくまっているカルメンおばあちゃんに育てられた。おばあちゃんももちろん裕福なわけではなく、葉っぱでできた屋根の家、川がお風呂で洗濯場、時折来るスコールがシャワーという生活。

こんな感じね

当然夜は真っ暗なので、何が起きたのかすぐには分からなかったものの、どうやら泥棒が入ったようで、カルメンおばあちゃんは勇敢に追い払っていたらしい。

私は逃げる泥棒に胸を踏まれたのだった。

カルメンおばあちゃんはとても強くて優しい人で、私だけでなく身寄りのない人を何人も家に住ませていた。なので家に知らない人がいるのが普通だったし、お金がないのももちろん当たり前。

なのになぜ泥棒が入ったのか。日本人男性と結婚した叔母さん(現在の義母)がこっそり仕送りをしてくれていたのだけれど、どこかでその話が漏れたのが原因だったらしい。裕福でも貧しくてもフィリピン人はお喋りが大好き。

カルメンおばあちゃんは無事泥棒を追い払ったし、胸の痛みもなんとか治まったけれど、後で聞くと泥棒は薙刀を持っていたらしい。カルメンおばあちゃんも私も無事でよかった。

薙刀を相手に素手で勝ったカルメンおばあちゃん。

彼女はきっと今も守護霊として私を守ってくれている。

カルメンおばあちゃんとの暮らしは今の私からは想像もつかないほどワイルド。

葉っぱの屋根やスコールのシャワーだけではなく、カルメンおばあちゃんは鶏を飼っていて、自分で捌いてみんなに振る舞ってくれたし、よくわからないお酒や葉巻も自分で作って嗜んでいたのをよく覚えている。

ある日、集落の大人の男性が5人がかりで大蛇を運んできた。いくら子どもの時に見たとはいえ、南国の蛇は本当に大きい。怖かった!

それをどうするのかと思ったら、丸焼きにしてみんなで食べはじめた。美味しいらしいが、私は怖くて食べれなかった。動物は好きなほうだけれど、いまだに蛇は得意ではないのはそんな理由。

海やココヤシの木が私の遊び場。ウミガメと一緒に泳いだり、今の暮らしと比べると、これだけは本当に贅沢だった…!

てっぺんに登ると本当に絶景

カルメンおばあちゃんとの暮らしはどんなに貧しくても楽しかった。小さいくせに噛まれるとめちゃくちゃ痛い赤いアリとかがたくさんいても、楽しかった。

でも、カルメンおばあちゃんと別れなければいけない日が来た。

8歳の時、仕送りをしてくれていた叔母がやってきて、あまりの暮らしの質の低さ(社会的な意味で)に怒ってしまった。

「あんなにお金を送ってあげているのに、この子にこんな暮らしをさせているなんて、もう見ていられない!」

なにしろカルメンおばあちゃんは見知らぬ人の面倒まで見ていたので、私の養育費として送ってもらったお金ではとても足りなかったのだ。

私は叔母に引き取られることに。それまで出たことのなかった小さな島を出て、首都マニラへ。マニラまでは、カルメンおばあちゃんも来てくれることに。

生まれて初めて靴を履き、初めて車に乗った。島では裸足だったし、遠距離の移動は水牛車が普通だった。

これね

道はもちろんボッコボコなので、何度も吐いた。

こんな苦しい思いをしてまで行かなければならないのか疑問だった。

叔母さん改め義母にはすでに娘がおり、私の妹になった。殴り合いの喧嘩をするほど、抜群に相性が悪かった。

めっちゃ笑顔だけどこの後怒鳴り合い。私の1番古い写真

フィリピン本土はタガログ語と英語が公用語。私が住んでいた島の言葉は方言どころか全く言葉が違っていたため、すれ違いも多かった。

今でこそ義母にはとても感謝しているけれど、お互い当時は前途多難すぎた。

その後、当時の義母の結婚相手の日本人と東京へ。

異国の地で言葉もわからず(根性で3ヶ月でマスターしたが)、いじめにもあった。義母の結婚相手はかなり厳しい人で、叱る度手を挙げていた。

実母が亡くなったと聞いたのは中2の時。葬儀に義母と行くことになった。

生後間も無く自分を捨てた人だったから、悲しくはなかった。なのに不思議と葬儀では涙が出た。思春期真っ只中、身内なのに知らない人ばかりだったし自分で自分の気持ちがよく判っていなかったけれど、今思うとあれは悲しくて泣いたんじゃない。悔しくて泣いたのだ。

小6の時、義母が日本人と結婚するための手続きで日本へ行くことになった。義理の妹と私は3ヶ月ほどマニラに残らなければならなかった。

そこで私達の面倒を誰が見るのか。名乗り出たのは、なんと私の実母だった。

急に家に実母が来て驚いた。再婚相手が一緒だったのもあるが、感動の再会どころか彼女は私を見ても何の感情も持っていない様子だったのだ。ハグのひとつもすることはなかった。

12年振りに会った実の息子を彼女はまるで他人のように扱った。そして義母のアパートに居座り、私と妹を物置部屋に追いやったのである。

私達のための義母からの仕送りは、自分と再婚相手が毎月すぐに使い果たした。2人とも働きもせず買い物に明け暮れ、私達の家で好き放題過ごしていた。

彼らは外食をし、私と妹はインスタントの軽食。まるで私達はシンデレラ状態である。

3ヶ月後その状態を知った義母の怒りようは説明する必要もない。そもそもなぜ実母に私達を任せたのか…それが彼女の長所でもあるのだが、義母はお人好しすぎた。

その後私達も日本に移住し、実母とは全く音沙汰がなかった。そんな中での訃報に、驚きはしたものの悲しめなかったのは、実の母親とはいえ複雑すぎた。

フィリピンの田舎はとにかく子だくさんで6人兄弟でも少ないほうだから、実母の葬儀には驚くほどの数の親戚が集っていた。誰が誰なのかさっぱりわらない。

「お母さんは最後まであなたの事を言っていた」と誰かが話してきた。

見え透いた嘘に苛立った。行き場のない悔しさから涙が出た。

そんな中、葬儀場で1人の男がじっとこちらを見ていた。

誰かがそっと教えてくれた。「あれはきみの父親だよ」

彼も生後まもなく私を捨てた人だ。私だけではなく、実母と他の兄弟も捨てた人だ。

しかも義母からは彼は亡くなったと聞いていた。なぜ葬儀に来ているのか、わけが分からなかった。

わけが分からなすぎて記憶がはっきりしないが、何も語らず父の膝にしばらく座っていたのはよく覚えている。

実の父に会ったのはそれっきり。

自分や家族を捨てた人なのにも関わらず、怒りが湧くことはなかった。

後になって知ったことだが、実母は実父の従兄弟と不倫後、再婚していたそうだ。

それが原因で離れたのかは分からないが、葬儀に父がいたのはそういう理由だった。

葬儀を終えて日本に帰国して間も無く、今度は義母が不倫をする。

原因は義父の暴力が原因。バレないように少しずつ荷物を不倫相手の家へ運び、ある日逃げ出した。

更に何がすごいって、私に何も伝えずに決行された夜逃げだったのである。

義母と妹達が逃げ出した当日、私はバドミントンの試合で石川県まで行っていた。東京に戻ってきてコーチが家まで送ってくれたが、玄関のドアを開けようとすると、奥で義父と同居していた義祖母が大声で口論しているのが聞こえた。

一体どこへ行ったんだ、服もなくなっているじゃないか。お前がよく手を挙げるから逃げられたんだ、荷物を運んでいることになぜ気付かなかったんだ!

そのまま開けかけたドアをそっと閉めて、ラケットを背負ったまま駅まで走った。

実の母が亡くなった矢先、義母もどこかへ消えた。

実の父はまた消え、義父は怒り狂っていて見つかれば殴られる。

もうどこにも居場所はなかった。

だからそのままアメリカに飛んだ。

血の繋がっている身内で、家族だと感じるのはカルメンおばあちゃんだけ。

正確な年齢はわからないけど100歳近くだったから大往生には違いなかったけど、私がフィリピンを出てからまもなく亡くなってしまったそうだ。

最期まで一緒にいてあげられなかった。

靴や車に慣れてからも、島やカルメンひいひいおばあちゃんのことを思い出さない日はなかった。

いつからか漠然と、大きな夢ができた。

海がとても綺麗で、カルメンおばあちゃんと暮らしたレイテ島。

島自体がとても貧しいので、いまだに現地の子ども達は充分な教育が受けられず、かつての私のような暮らしをしている。

生まれた島に学校を建てたい。

今は我が子達にたくさん旅をして、立派な大人になってもらうために時間を使っているけれど、みんな自立したらその野望を実行したい。

それがカルメンひいひいおばあちゃんへの恩返しになると信じて。

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