旅行Youtubeチャンネル「アランのファミリートラベル」と旅ブログ「ファミリーフライヤー」は、家族6人で制作しています。
アラン
Hola!都内在住フィリピン×スペイン×日本人のミックス、アランです。仕事や育児の隙間時間はもちろん、睡眠時間も惜しんで毎日格安の航空券やホテル探しをするのが好き。大家族でも少ない予算で旅ができる方法を発信しています。
いまだに海外では未成年と疑われがちですが、重度自閉症の長男、小学生の長女、幼稚園の次男・乳児の三男4人の父。
生後間も無く両親に捨てられた田舎の島のジャングル育ち。
夏はいくら動いても太り、冬はいくら食べても痩せる謎の体質。国外だとどこでも現地人だと思われて話しかけられる顔ですが、日本語ペラペラなのでよく驚かれます。英語・タガログもネイティブレベルです。
- 1985年フィリピン、レイテ島の自宅でお産婆さんに取り上げられ捨てられる
- 1991年叔母に連れられマニラへ、生まれて初めて靴を履く
- 1997年叔母改め義母の結婚相手と共に東京へ、いじめのターゲットになるも返り討ち
- 1999年バドミントンで全国大会へ
- 1999年実母の葬儀へ、実父と最初で最後の出会い
義母の不倫&夜逃げ - 2002〜2004年癒しを求めてカリフォルニアに飛ぶも逆効果で暗黒時代に陥る
- 2004年捜索願を出され帰国
- 2004〜2011年真面目な社会人になろうと働くも、義母にクレジットカードも貯めたお金も全て使われる
- 2010年ゴスペルサークルで現在の妻に会う、ボーカル大会で優勝を重ねる
- 2011年コツコツ貯めた全財産○○○万円を震災時のドラえもん募金に突っ込む、貯蓄0で結婚
- 2014年某マリオット系列ホテルに勤務、長男のアトピー治療で訪れたバルセロナで旅にハマる
- 2020年副業で旅Youtuberを始める
フィリピンでターザン生活
フィリピン、セブ島近くのレイテ島。6人兄弟の次男の私は、生後まもなく家庭の貧しさから実の母に捨てられ(長男は亡くなっていた)、実の父も失踪。
そのため、身寄りのない見知らぬ人まで家にかくまっているカルメンひいひいおばあちゃんに育てられました。
おばあちゃんももちろん裕福なわけではなく、葉っぱでできた屋根の家「バーハイクボ」に住み、川がお風呂で洗濯場、時折来るスコールがシャワーという生活。
5歳くらいの頃、ある日左胸の激痛で目が覚めました。
真っ暗闇の中、カルメンひいひいおばあちゃんの怒鳴り声が。ジャングル暮らし、虫や蛇を見ても微動だにしないカルメンおばあちゃんが騒いでる!
当然夜は真っ暗なので、何が起きたのかすぐには分からなかったのですが、どうやら泥棒が入ったようでした。
カルメンおばあちゃんは勇敢に追い払っていたらしい。
私は逃げる泥棒に胸を踏まれたのでした…
カルメンおばあちゃんはとても強くて優しい人で、私だけでなく身寄りのない人を何人も家に住ませていました。なので家に知らない人がいるのが普通だったし、お金がないのももちろん当たり前。
なのになぜ泥棒が入ったのか。
当時日本人男性と結婚した叔母さん(現在の義母)がこっそり仕送りをしてくれていたのですが、どこかでその話が漏れたのが原因だったらしい。裕福でも貧しくてもフィリピン人はお喋りが大好きなんですよね…。
カルメンおばあちゃんは無事泥棒を追い払ったし、胸の痛みもなんとか治まったけど、後で聞くと泥棒は薙刀を持っていたらしい。
薙刀を相手に素手で勝ったカルメンひいひいおばあちゃん。
彼女はきっと今も守護霊として私を守ってくれています。
カルメンおばあちゃんとの暮らしは、今の私からは想像もつかないほどワイルドでした。
葉っぱの屋根やスコールのシャワーだけではなく、カルメンおばあちゃんは飼っていた鶏を自分で捌いてみんなに振る舞ってくれたし
よくわからないお酒や葉巻も自分で作って嗜んでいたのをよく覚えています。
ある日、集落の大人の男性が5人がかりで大蛇を運んできたことも。
いくら子どもの時に見たとはいえ、南国の蛇は本当に大きい。怖かった!
それをどうするのかと思ったら、丸焼きにしてみんなで食べ始めたんです。美味しいらしいんですが、私は怖くて食べれなかった。
動物は好きなほうだけど、いまだに蛇が得意ではないのはそんな理由があります。
海やココヤシの木が私の遊び場。ウミガメと一緒に泳いだり、今の暮らしと比べると、これだけは本当に贅沢でした。
カルメンおばあちゃんとの暮らしはどんなに貧しくても楽しかったです。小さいくせに噛まれるとめちゃくちゃ痛い赤いアリとかがたくさんいても、楽しかった。
小1で生まれて初めて靴を履く
でも、カルメンおばあちゃんと別れなければいけない日が来ました。
6歳の時、仕送りをしてくれていた叔母がやってきて、あまりの暮らしの質の低さ(社会的な意味で)に怒り
「あんなにお金を送ってあげているのに、この子にこんな暮らしをさせているなんて、もう見ていられない!」
なにしろカルメンおばあちゃんは見知らぬ人の面倒まで見ていたので、私の養育費として送ってもらったお金ではとても足りなかったんです。
私は叔母に引き取られることに。それまで出たことのなかった小さな島を出て、首都マニラへ。マニラまでは、カルメンおばあちゃんも来てくれることになりました。
生まれて初めて靴を履き、初めて車に乗りました。
島では裸足だったし、遠距離の移動は水牛車が普通。
道はもちろんボッコボコなので、何度も嘔吐。
こんな苦しい思いをしてまで行かなければならないのか疑問でした。
叔母さん改め義母にはすでに娘がおり、私の妹に。殴り合いの喧嘩をするほど、抜群に相性が悪かったです。
フィリピン本土はタガログ語と英語が公用語。私が住んでいた島の言葉は方言どころか全く言葉が違っていたため、すれ違いも多かったです。
今でこそ義母にはとても感謝しているけれど、お互い当時は前途多難すぎでした。
東京へ、いじめと家庭内暴力
その後、義母の当時の結婚相手の日本人と東京へ。
書き初めでなぜか金賞を取って驚かれたりしましたが、異国の地で言葉もわからず(根性で3ヶ月でマスター)いじめのターゲットに。
ゴミ箱に閉じ込められて転がされたり、私が給食当番の時は配膳してる料理を誰も食べなかったり。
だから当番の時は真っ先にみんなが好きな料理に走って、独り占めしてました。子どもだったとはいえ、クラスメイトのあの悔しそうな顔は忘れられません。
いじめはやめようね。
義母は何かとベルトで引っ叩くし、結婚相手も空手をやっている上かなり厳しい人。叱る度手を挙げていたため家でも気は安まらず。
そんな中実母が亡くなったと聞いたのは中2の時。葬儀に義母と行くことになりました。
無情な実母の葬儀
生後間も無く自分を捨てた人だったから、悲しくはないはず。なのに不思議と葬儀では涙が出ました。
思春期真っ只中、身内なのに知らない人ばかりだったし自分で自分の気持ちがよく判っていませんでしたが、今思うとあれは悲しくて泣いたんじゃない。悔しくて泣いたのだと思います。
小6の時、義母が日本人と結婚するための手続きで日本へ行くことになったのですが、義理の妹と私は3ヶ月ほどマニラに残らなければなりませんでした。
そこで私達の面倒を誰が見るのか。名乗り出たのは、なんと私の実母だったんです。
急に家に実母が来て驚きました。
再婚相手が一緒だったのもありますが、感動の再会どころか彼女は私を見ても何の感情も持っていない様子でした。
12年振りに会った実の息子を彼女はまるで他人のように扱ったんです。ハグをすることもなかった。
そして義母のアパートに居座り、私と妹を物置部屋に追いやったのでした。
実母はミスコンで優勝するほどの美女でしたが、今でも彼女の心境は理解できません。
私達のための義母からの仕送りは、自分と再婚相手で毎月すぐに使い果たしていました。
2人とも働きもせず買い物に明け暮れ、私達の家で好き放題過ごす始末。
彼らは外食をし、私と妹はインスタントの軽食。まるで私達はシンデレラ状態。
3ヶ月後その状態を知った義母の怒りようは説明する必要もありません。
そもそもなぜ実母に私達を任せたのか…それが彼女の長所でもあるのですが、義母はお人好しすぎでした。
その後私達も日本に移住し、実母とは全く音沙汰がなかったのでした。
そんな中での訃報に、驚きはしたものの悲しめなかったのは、実の母親とはいえ複雑すぎる…
フィリピンの田舎はとにかく子だくさんで6人兄弟でも少ないほうだから、実母の葬儀には驚くほどの数の親戚が集っていました。誰が誰なのかさっぱりわらない。
「お母さんは最後まであなたの事を言っていた」と誰かが話してきます。
見え透いた嘘に苛立ちが隠せず、行き場のない悔しさから涙が出たんです。
そんな中、葬儀場で1人の男がじっとこちらを見ているのが気になっていました。
誰かがそっと教えてくれました。「あれはきみの父親だよ」
彼も生後まもなく私を捨てた人。私だけではなく、実母と他の兄弟も捨てた人。
しかも義母からは彼は亡くなったと聞いていたんです。
なぜ葬儀に来ているのか、わけが分からなかった。
わけが分からなすぎて記憶がはっきりしないのですが、何も語らず父の膝にしばらく座っていたのはよく覚えている。
実の父に会ったのはそれっきり。
自分や家族を捨てた人なのにも関わらず、不思議と怒りが湧くことはありませんでした。
最近知ったことですが、実母は実父の従兄弟と不倫後、再婚していたとのこと…
それが原因で離れたのかは分かりませんが、葬儀に父がいたのはそういう理由でした。
泥沼すぎる。
義母夜逃げ、アメリカに飛ぶ
葬儀を終えて日本に帰国して間も無く、追い討ちをかけるように今度は義母が不倫します。
原因は義父の暴力が原因。バレないように少しずつ荷物を不倫相手の家へ運び、ある日逃げ出したらしいんです。
「らしい」ってとこがすごくて、私に何も伝えずに決行された夜逃げだったんですよね…
義母と妹達が逃げ出した当日、私はバドミントンの試合で石川県まで行っていました(ちなみに全国2位でした)。
東京に戻ってきてコーチが家まで送ってくれたのですが、玄関のドアを開けようとすると、奥で義父と同居していた義祖母が大声で口論しているのが聞こえたわけです。
「一体どこへ行ったんだ、服もなくなっているじゃないか。お前がよく手を挙げるから逃げられたんだ、荷物を運んでいることになぜ気付かなかったんだ!」
そのまま開けかけたドアをそっと閉めて、ラケットを背負ったまま駅まで走りました。
実の母が亡くなった矢先、義母もどこかへ消えた。
実の父はまた消え、義父は怒り狂っていて見つかれば殴られる。
もうどこにも居場所はありませんでした。
その後何かがプツンと切れてしまい、癒しを求めて誰にも告げずカリフォルニアに飛ぶもアメリカの闇に飲まれ人生の暗黒時代を迎えます。
捜索願い出されて帰国、自暴自棄時代
カリフォルニアで以前から知り合っていたファミリーの家にお世話になり、レイテ島以来の楽しい日々を過ごしました。
2年後、日本にいた知り合いから「お前日本で指名手配されとる」と連絡が。
そんなわけはありませんでしたが、義母が警察に捜索願いを出していて私の顔が町中に貼られていたんです…
そんなに心配しているならと帰ってみると、私が使っていた部屋は義母のダイエット器具で溢れている始末。
何十個もあったバドミントンやバレーのトロフィーは全部捨てられていて、ウェルカム感ゼロ。
それでもさすがに今までの恩もあるので、義母が開いたスナックの手伝いをしていました。
その後大手家電量販店や大手ファッションブランド店などで働き、どこも数ヶ月で管理職へ。ですがその都度上司に「なぜお前はこんな所にいるんだ、もっと上に行け」とハングリー精神のなさを突っ込まれ、飽きっぽさもあり次々退職。
月給は周囲の同年代より高かったものの、初めて作ったクレジットカードを毎月限度額まで義母に使われ続け、隠していた現金も知らぬ間に抜き取られており貯金0状態が続きました。
ダンスやヴォーカルの大会も優勝したら飽きてしまう始末。
そんな時にふと「会費を途上国の支援に使う」というゴスペルサークルを見つけます。
なんとなく入った先、テノールパートの最前列で奇怪な動きをしながら歌っていたのが今の妻です。
色々なトラウマから結婚は一生しないつもりでいたのですが、出会ってから半年で結婚。人生ってわからん。
長男に重い障害
出会ってから1年後授かった長男は、生後から重度のアトピー性皮膚炎でほとんど眠らない子でした。
1日のトータル睡眠時間は2時間ほどで、親子共に寝不足が続きます。
2歳を過ぎても発語がなく、一日中癇癪が続きました。重度の自閉症と発覚。目も合わせず話しかけても上の空。
それでも2歳下の長女とともにすくすく育ち、長男2歳・長女8ヶ月の頃グアムへ。滞在中は驚くほどよく眠り、癇癪とは無縁でした。
帰国後再発した睡眠不足で溜まったストレスを解消しに、長男が3歳の頃バルセロナへ。
当時マリオット系列ホテルに勤めていたこともあり、憧れのWホテルに初めて宿泊したのがこの時です。
2週間の滞在中、やはり長男は別人のようによく眠り、現地の子達と遊んでいました。
12歳の今も発語はありませんが、話しだしそうなくらい生き生きとした姿に驚かされる毎日。そして帰国すると元通りの不眠。
ここから極限まで予算を削った海外旅行にハマる生活が始まり、現在に至ります。
長女・次男は生後半年で海外へ
長男が4歳の頃マルタ共和国へ。アジア人の幼児が珍しいのか、とんでもなく可愛がられました。
長男5歳、チェコ〜オーストリア〜ドイツを列車で周遊。
長男6歳、再びバルセロナを訪れ船でマヨルカ島へ。
長男が7歳の頃次男が生まれます。次男の妊娠半年と生後半年にフィリピン、11ヶ月でインドネシアのバリ島へ。バリ島から帰国したタイミングでコロナ禍に。三男が生まれます。
コロナが明けてからはタイやベトナム、マレーシアなどアジアを中心に海外旅を再開。妻が現在5人目を妊娠中なので、大好きなヨーロッパはもう少し辛抱します。
カルメンひいひいおばあちゃん
私の命を救ってくれたカルメンひいひいおばあちゃん。
正確な年齢はわからないのですが100歳近くだったから大往生。でも私がフィリピンを出てまもなく、糸が切れたかのように亡くなってしまったんです。
最期まで一緒にいてあげられなかった。
靴や車に慣れてからも、島やカルメンひいひいおばあちゃんのことを思い出さない日はありませんでした。
いつからか漠然とできた夢があります。
海がとても綺麗で、カルメンおばあちゃんと暮らしたレイテ島。
島自体がとても貧しいので、いまだに現地の子ども達は充分な教育が受けられず、かつての私のような暮らしをしています。
生まれた島に学校を建てたい。
今は我が子達にたくさん旅をして、立派な大人になってもらうために時間を使っているけれど、みんな自立したらその野望を実行したい。
それがカルメンひいひいおばあちゃんへの恩返しになると信じて。
Youtubeのロゴは「バーハイクボ」
現在運営しているYoutubeチャンネル「アランのファミリートラベル」のロゴは、生まれ育ったレイテ島で住んでいたほぼ葉っぱの家「バーハイクボ」をイメージして制作しました。中の旅行鞄は長女作画。
もざ郁子
洋楽が唯一の救いだった
今日も育児お疲れ様です。ASD傾向ですが人生大成功してると思っているおばさんです。北海道生まれ、横浜→広島→東京育ち。
誰とでもすぐ仲良くなり何でもすぐ出来てしまうキラキラ系のアランに対し、どんなに練習しても何もかも驚くくらいうまくいかない泥臭い人生。
立ち位置はアラン曰く彼がフリーザで私がドドリア。
才能がない代わりに人にはとても恵まれているので幸せ。
幼少期は夫婦仲の悪い親のもと「他人を信じるな」「この世は絶望に溢れている」と言い続けられ育ち人間不信に。20歳を過ぎてもカメラを向けられたり人前で鏡を見るのが極度に怖く、外を歩いていて人とすれ違うのも緊張。
その緊張を海外ではなぜか全く感じないため、のちのち海外旅にハマる。
物心ついた時から洋楽が好きで、ディオンヌ・ワーウィックやスティービー・ワンダーなどの曲を口ずさんでいた。
HSPで学生時代学校で声を出せたのは音楽の時間だけ。後にアランと出会えたのも押入れで布団を被って1日6時間歌っていたおかげなので、セリーヌ・ディオンや当時大好きだった女性カントリーシンガー達は救世主。
他人と全く会話のない学生時代
大人数が密集している空間での膨大な情報量(に感じた)を処理できず、小学校〜高校は教室にいる事が苦痛すぎて授業を聞くどころか同級生と話す事も給食を食べる事もできない始末。
小学生の頃1度「辛いから行きたくない」と母に訴えると「義務教育だ、そんな言い訳は許されない」と怒鳴りながら登校班まで引きずって行かれ余計に目立ってしまい、不登校にすらなれず。
ASDである自覚がないまま、「このおかしい性格を治さなければ」と16歳になってすぐ週5で往復2時間かけ某大手テーマパークの接客アルバイトに下校後直行。なぜか役になりきる事はできゲストとコミュニケーションは取れたものの、職場の人達とは当然馴染めるはずもなく。
高校を卒業するタイミングで「やめます」と告げた時のリーダーのホッとした表情は今でも忘れられない。
それでも何を血迷ったのか高校時代はミュージカル俳優も志望していて、
オーディションに合格しても、コミュニケーションが取れず結局舞台に上がる所までは行かずを繰り返して学歴も実績もないまま20代に。
こどもに人生を救われる
26歳の時生まれた長男が重度の自閉症であったことから発達障害に関する書籍やサイトを読み漁り、むしろ自身のほうが当てはまっている事を知る。
親を無条件に信頼してくれるこどもの無償の愛のおかげで「こんな自分でも必要としてくれる人がいる」「生きていていいんだ」という勇気をもらう。
子どもの頃はお日様に向かって元気に咲いている花に憧れたものですが、今は地に向かってそっと枝垂れる花を尊敬。ジュリー・ロンドンのような歌声になりたい。
人はトラウマのレベルが同じ者と長続きする、という格言を信じています。
長男
自閉症で12歳の今も発語0の長男。海が好きで真冬でも地中海に飛び込んだ。
知的な遅れを感じさせず、言語認知がほぼできないにも関わらず相手が何を求めているか分かる尋常じゃない洞察力の持ち主。
我が家で1番気が利く人。
海外に行くと別人のように初対面の人とコミュニケーションを取る彼が原因で我が家は海外旅行にハマった。
長女
小学校高学年の長女。考古学・神話・動物が好きで放っておくと平気で6時間以上本にかじりついている。
兄は自閉症で言語認知がないため実質いちばん年上状態、すでに苦労人。
歌や朗読、デザインが得意。英語は話せないがどこの国に行っても気付けば現地の子達と遊んでいる。でも学校では物静か。
次男
幼稚園に通う次男。家族一のしっかり者でシェフ志望。
カレーパンとクロワッサンをこよなく愛しており、自分の中でクロワッサンの美味しいホテルランキングがある。
乳児の頃からブルーノマーズをリスペクトしており、アニメよりブルーノのPVで泣き止む。
三男
器用で怪力の三男。
アランの赤ちゃんの頃の写真はないが、性格も外見もいちばん似ているのでこんな感じだったのだろうと想像させてくれる。
2歳だがお手伝いが好きで何でも自分でやろうとする。